江戸時代前期における日本の大儒学者伊藤仁斎の没後にも伊藤家は学塾古義堂を代々運営し、京都の名門儒学者の家として維持された。最近の研究においては伊藤家歴代の当主たちが朝廷の公家たちとも様々な交流を行い続けたこと、それによって朝廷の政治的な意思決定にも一定の影響を及ぼした事実が再び注目をあびている。 本稿は19世紀前半の古義堂伊藤家五代目当主である伊藤東峯と公家社会の関係を検討対象としたものである。東峯と公家たちの交流、特に摂家鷹司家との交流は最近の研究でも検討されたものの、関連する研究は極めて初歩的な段階に止まっている。 本稿は先行研究で検討されたことのない東峯の書簡史料に注目し、公家子弟の教育をめぐって当該家の当主と東峯が議論を交わした事例や、公家が日本の歴史について東峯にアドバイスを求めた事例などに注目する。それにより、東峯と公家たちとの関係性がどのようなものであったかを踏まえつつ、公家たちはどのような部分で東峯に学問的な期待を寄せて頼っていたか、そして、東峯がこれに対してどのように応えて公家社会の動き、ひいては天皇を中心とする朝廷の公的な動きにまで寄与したかを具体的に明らかにすることができた。