歴史的に資本主義の拡散は工業と産業の発展を基に都市化と文明化を齎しており、これに対し、日本の近代詩人たちは肯定と否定の視線を同時に示す。しかし、多くは都市の文明化を人間性を逼迫し、情緒を抹殺するものとみる否定的な視線が目立つ。早い時期に文明と都市に注目した萩原朔太郎は文明化した都市と人間の生や日常生活との関係を照明している。初期には都市、特に東京への憧れの姿勢を表すが、だんだん盲目的な都市化を批判していく。一方、大正末期に登場した前衛派詩人たちの多くはドライな言語表現に偏った結果、彼らが目指した詩形式の変革と立体的な言葉遣いは、文明礼讃であれ批判であれ、単なるレトリックとしての限界を否めない。こういう観点からみると、小野十三郎と岡本潤は前衛詩人として出発したものの、前衛詩が排除した自然の表情や人間の思考を詩の中に導入することで、盲目的で理不尽な文明化と都市化の弊害を辛辣に批判している点、抒情性を備えたリアリズム抒情詩・諷刺詩としての価値が認められる。