本稿では、歌枕「安達」の題詠化を通史的に考察してみた。歌枕「安達」は早くも古今和歌集から用例を見いだすことが出来る。にもかかわらず、「安達」は都から離れた辺鄙な地であったため、遠い未知の風土、鬼の人を食い殺すという怖ろしい伝説が伝わる観念の地でもあった。また古今集の「安達のまゆみ」から、恋歌などにおいて遠く離れている人を引き寄せる力を持っていると言われた神器の産地という伝統をも受け継いできた。それ故に他の歌枕、とりわけ都から遠く離れ、その発見と題詠化が遅れた東海道上の歌枕に比しても、さらに題詠歌への包摂が遅れた歌枕でもあった。 しかし、歌枕「安達」に対する関心は、歴史的に源頼朝の奥州征伐以降、新古今集に源重之の歌が撰入されたことによって急激に増加したと見られる。そして新古今集の奏覧を祝うために催された最勝四天王院障子和歌の歌題として撰ばれたのも、その結果の一つだと言えよう。 一方、題詠化において季節的に秋の歌枕、辺境の歌枕として定着するように見えた歌枕「安達」は、最勝四天王院障子和歌開催の八年後、順徳院の主催した健保三年名所百首では冬の終わりでありながらも、循環する四季の繋がり役として、冬十首に配置された。それによって歌枕「安達」はただ都からかけ離れ、誰もに捨てられた地ではなく、朝廷の支配がとどく最前線でありながらも、冬の終わりから春の始まりをつなげる歌枕として題詠化したと思われる。この建保三年名所百首における歌枕「安達」の配置は、主催者の順徳院を日本の時空間を支配する帝王として表象しようとする意識と関わっていると思われる。