本稿では日本植民地時代の改良書堂で行われた日本語教育の実体を究明し、日本語教育を担当した教師と統監府時代から日本植民地時代にかけて使われた日本語教科書について調べた。当時、改良書堂での日本語教育が持つ重要な点は、まず、改良書堂を日本植民教育を注入する場にしようとしたことである。そして二つ目は、1930年代以降活発に展開された簡易学校とも比較されるが、簡易学校は上級学校への進級が許されない2年間の短期終結教育だった点に比べ、1930年代の改良書堂は一定期間教育を終えれば普通学校2年あるいは3年の課程を履修したと認め、6年制普通学校への進級が許可されたことが挙げられる。一方、日本語教育を担当した教師は初期には書堂の訓長が講習会を通じて日本語を学習させたが、実際にその期間が非常に短く、きちんとした教授がなされていなかったようである。最後に,1933年に編纂、発行された『普通學校國語讀本』4年制用を通じて日帝が朝鮮で展開した日本語教育は徹底した差別教育であることがわかった。