本稿は、1970年代の「家族」をキーワードに、日本の富岡多恵子の短編『新家族』(『海』、1977)と韓国のキム・ジンオクの長編『裸身』(『ウイル文化社』、1978)を、ウーマンリブとエコフェミニズムの観点から分析したものである。二つの作品はそれぞれ現代の核家族をモチーフにし、一夫一婦制を基にしている家族制度から生じてくる問題に異議を唱えている。両作品では、女性たちの内在性を無視した超越的な生き方が問題視される。つまり、女性たちは自分自身の身体の中にある生殖潜在力を度外視し、もっぱら男性主義を追従した結果「超越的な生き方」には近づいたものの、身体を敵に回し、子どもを生まなくなっているということである。しかし作品の中にそれぞれの新しい家族形態が提示され、二つの作品が目指す結論は異なった姿を見せる。日本の『新家族』では「母子家族」、韓国の『裸身』では「非同棲家族」がそれである。つまり、二つの家族モデルには家族構成員が異なるということである。日本は夫のいらない子だけの家族を望み、韓国は夫はほしいが子どもはいらないとされる。こうした結論から、1970年代に両国で行われた女性解放運動であるウーマンリブの格差を感じずにはいられない。