本稿は, 凡父金鼎卨(1897-1966)の履歷の中で未だ不明のまま殘されている日本遊學·行蹟について檢討したものである.
凡父は當時'慶州の三大天才と言われ, 日本遊學時頭山滿(1855-1944)に尊敬された人物で留學生の中で嶺南第一の天才という別名が得られたらしい. 凡父は白山商會の己未育英會の장學生として選ばれて始めて日本に渡るようになる. その時彼は日本の近代的知識を學んだようである.
彼は, 鷄林學塾の初代學長として就任するとき作られた履歷書には'東洋大學を卒業'したとか '比叡山專修學院名譽講師'に務めたとかいう經歷が記されており, 凡父の主著『花郞外史』や凡父に關する從來の硏究にも日本遊學についていろいろと記錄されている.
が, これらには不明な點が多く未だ再檢討を經ていない. これまで考證なしに'凡父は19세(1915)に白山商會己未育英會の장學生として日本留學をしたという記述があるが, これは誤りで, 本當は1920年3月のことであり, また1921年東洋大學哲學科卒業という履歷も誤記であることが分かった.
結論的に, 李完栽が指摘したように, 凡父の日本遊學は, 本格的硏究よりも短期間'日本學者との交遊や學會の視察のための日本行'であったといった方がよかろう. これから凡父の履歷全般について實證を兼ねての再檢討が必要であろうと思う.